magic lantern

先んじた手

「ナオ兄ってさ、いつからそんな変なカッコしてたっけ?」
あの戦い以降、ヒルズに近づく人間はほとんどいない。もはや、全体が自分たちの専用と化したビルの一室、言うなればリビングのような部屋で聞こえてきた声にカイドーは言葉を失った。
「……お前の物言いはともかく、この羽織のことを言っているならお前の家を出た後に決まっているだろう」
名実ともに魔王になった弟からの言葉に、ナオヤは苦虫を噛み潰したような表情を一瞬滲ませただけで、淡々とパソコンのモニターから目を離さずに答える。その様子を見守っていたカイドーとアツロウはどちらともなく、顔を見合わせて小声を交わした。
「ついに言いやがった」
「っていうか変って思われてるっていう自覚はあったんだ、ナオヤさん」
魔王の弟と、弟を魔王にすべく暗躍してきた兄。表面上は穏やかこの上ないのだが、何となく寒くなってきた気がしてアツロウは少しだけカイドーに近寄る。寒い。エアコンが効いているせいではなく寒い。
「やっぱり家を出てからなんだ。だよね、家じゃあほとんど母さんが買った服着てたもん」
「居候だったからな、相応の振る舞いというものが当然ある。……俺は生まれた先の文化圏は一通り吸収しないと気が済まないんでな、今回はこれだ」
普通の主婦が選んだだろう、男の子用の子供服を着せられているナオヤを想像して絶句していたカイドーとアツロウは、さらなるナオヤの言葉に目を見開いた。
「今回は?ってどういうことだよ?」
「次回とか前回とかあるってことか?ナオヤさん、全部覚えて…るとか?まさかな」
「覚えているぞ。言わなかったか」
「!?」
小声だったはずの会話を拾われて、しかも想定外の答えが返ってきて、二人は小動物よろしく目を丸くして顔を見合わせた後、揃ってナオヤに向き直る。
「言わなかったか、って……テメー、ンなイカレたこと一度も聞いてねェよ!」
「覚えてるっていつからですか?最初から全部?」
ナオヤはモニタから目を離し、ようやくのことで姿勢をも戻して二人と顔を合わせた。驚きそのものの表情にくすりと薄い笑みをこぼす。
「最初からさ。始祖の兄、カインという名をアツロウなら聞いたことがあるだろう。今回の争いの発端、ベルの王に人間がなれたのは単に最初にヤドリギでベル・デルを倒したから資格を得たというわけじゃない。もともと紘明には資格があった。永遠に一人で転生を繰り返すカインと違って、子孫を世界中に増やしたアベルの因子を持っている、という資格がな。バベルはそもそもバ・ベルで神の門というが、アベルも同じことでア・ベル、ベルの王という。王の資質を持つ人間はいくらでもいる、アベルの子孫は山ほどいるからな。ただ、あの場でベル・デルを倒したアベルはこいつだけだった。だから、紘明がベルの王にならなければ意味が無かったんだ」
「……ナオヤさんは最初から分かってたんですか。ヒロがその…アベル、だっていうことに」
恐々と尋ね返したアツロウに、ナオヤは表情を全く変えずに答える。
「分かっていたに決まっている。俺は兄だぞ、弟を分からない兄がどこにいるというんだ」
少しの間も置かずに澱みない声で返したナオヤだったが、当のアツロウと隣にいるカイドーが黙りこくっているままなので、すっと眉頭を寄せて弟を見やった。ナオヤの従弟であり弟でもある、現代の魔王は暢気に大口を開けてお菓子を咀嚼している。
「ヒロ、お前も気づいてたのか?」
「んー?ナオ兄がおかしなヤツだって言うのは生まれた時から知ってるよ」
アツロウに尋ねられた紘明は尚ものんびりとそう返してスナック菓子を口に放り込んだ。さくさくと軽い音が響いて、やや気抜けした風にアツロウが問い質す。
「そうじゃなくて……最初にここに登る前に天使たちがナオヤさんとお前に何か言ってただろ、それってこの話?」
「多分ね。あの頃は何にも知らなかったからさ、憶えてないのかって言われても憶えてないに決まってんだけど。バベル倒した後かな、そういうのが何か分かるようになっちゃって。おれ自身はアベルとかそーゆーのじゃないけど、因子を引き継いでるから記憶はあったらしいんだよ。仕組みはよく分かんないけど、この戦いの直前ぐらいに急に記憶が戻って。あっちとしては、アベルの記憶を戻しておれを自分のところに引き込みたかったんだろうけどね」
既に話が理解の範疇を超えている、と判断して紘明の話を聞き流しているカイドーが視界に入ったナオヤの表情に気づいてそのまま視線を留めた。神に対する苛立ちや憎悪というよりは微かに苦しげで痛々しいような、そんな見たことの無い顔のナオヤに釘付けになってしまう。
「カイドー?」
「……何でもねェ。オレにはどうでもいい話だからヨ、眠くなっちまっただけだ」
あんなナオヤをカイドーは知らない。そもそも付き合い自体長いわけではないが、浅いわけでもない。このまま同じ場にいることが耐えられなくて、何故耐えられないのか分からないのも嫌で、カイドーはさっさと部屋を出ようと立ち上がる。
「カイドー、寝床行くならナオ兄も連れてってよ、この人、昨夜寝てないんだもん」
「えっ、ナオヤさん寝てないんですか!?なんか急ぎのことでもありました?俺が出来ることならやっておきますから、休んで下さいよ」
「紘明……余計なことを言うなといつも」
スナック菓子の欠片を指につけたまま、紘明はにっこり笑った。余計なこと、というのは大抵ナオヤが気づいて欲しくない類いのことで似た思考回路を持つ紘明には手に取るように分かる。分かっても対処のしようがなかった前までなら放っておいたけれど。
「ご飯の時間になったら起こすからさ、二人とも寝てきなよ。ね?別に急ぎのことなんて何も無いしさ」
カイドーはさきほどまでと違い、いつものように険しい表情をしているナオヤと自分たちの魔王とを見比べる。確かに顔が似ていて、頭の中身もおそらく似ていて、でも決定的に違う。
それは紘明が持つ無尽蔵の魔力やベルの王としての力ではなく、ナオヤが持っている先を読む力や知識などといったものでもない。紘明にあってカイドーにもあって、アツロウには少し足りなくてナオヤには無いもの。
「魔王様の命だぜ、どうすんだ直哉」
ふう、とわざとらしくため息をついたナオヤは作業していたノートパソコンを畳んで、立ち上がった。ノートパソコンを小脇に挟んでカツカツと苛立たしげに下駄を鳴らす。
「行けばいいんだろう。ったく、誰が生活態度まで干渉しろと言った」
「おれがそうしたいからだよー。言われたくなかったら自覚してよナオ兄。って自覚はしてるんだよね、そう動きたくないだけで。わがままなんだから」
「……くだらん。いくぞ征志」
カイドーとアツロウには分からない謎の会話を一方的に打ち切ったナオヤはそう言ってさっさと歩いていこうとした。カイドーは慌てて後を追う。
「おやすみー」
「おやすみなさい!」
少年魔王とその相棒から暢気な声がかかって、カイドーはとりあえず片手を上げて応えながらナオヤを追った。歩きにくい下駄を履いているはずなのに、ナオヤの歩くスピードはかなり速い。たまに魔力を駆使して浮遊しているときもあるのだが、今回は怒りを踏み散らしているのかハイスピードで歩いていた。
「アンタ、どうしたんだよ。らしくねェな、紘明に八つ当たりなんて」
あれは確かに八つ当たりだった、とカイドーは思う。話の細かいところはよく分からないし、そもそも先ほどのナオヤの異変の理由も分からない。よく分からないなりに、紘明はその理由を大よそ理解していてだから自分に連れていけと言ったのだとは分かった。フォローを任されたのだろう、と理解している。理由を分かる紘明がなぜそれをやらずに自分に任せるのかは、分からないが。
カイドーが後ろからそう声を掛けると、ナオヤは突然立ち止まってぐるりと振り向いた。恨めしい、とでも表現したくなるような忌々しげな視線を寄越している。
「……馬鹿者」
「なっ……なんだよ!」
「いや馬鹿は俺か。お前に悟られるとは俺も落ちたものだな、紘明ならともかく」
それだけ言うとナオヤは再び勢い良く歩き出した。カイドーは紘明が言うところの『変なカッコ』をしているナオヤの背中を見つめながら、後ろをついて歩く。もともと自分は察しが良いわけではないし、頭が良いわけでもない。そんな能力は自分には無いことは小さな頃から分かっていたし、そのジャンルでこの兄弟に敵う者などいないとカイドーは思っている。だからナオヤの発言に腹は立たない。腹は立たないが、別の意味でとてもムカついた。

ナオヤは、何も言わない。理解を求めない。理解を得られるはずがないのだと、最初から全てを放棄している。

他人を理解しようとしなくても、ナオヤには手に取るように理解出来る。ナオヤはそうやって他人をコントロールして己の本心を覆い隠す術に長けていて、むしろそれ以外のコミュニケーションを知らない。東京封鎖の最後の夜。ナオヤがカイドーを呼んで紘明がナオヤと共に万魔の王となる決意を固めた、夜。あの頃からカイドーは何故かナオヤの傍にいる。頭が良すぎて気持ち悪いぐらいなのに、どこか空ろな男を放っておくことが出来ないまま、気がつけば身体さえ預けていた。
バベルと戦うまで、ナオヤは紘明を含めてカイドーたちを駒としてしか扱わなかったし、コントロールしようとしていた。バベルに紘明たちが勝利した後もしばらくはそうだったが、四六時中一緒にいるようになって少しづつ変わってきた。紘明の言動にらしくなく苛立って見せたり、カイドーやアツロウに笑ってみせたりするようになった。
人間らしくなった、と紘明含め3人ともが喜ばしい変化だと思っているのに、本人はそうでないらしく、今のようにわざと相手を怒らせて一人になろうとする癖がある。理解されないのだから、始めから近づくなと何度もそうやって警告しようとする。
ナオヤの悪癖にカイドーが本気で苛立って怒った時、紘明に説明されてようやくカイドーもアツロウもそのことを理解したのだ。少し前のことになる。

『ナオ兄はさ、おれのこともアツロウとカイドーのことも好きなんだと思う』
『すごく好きな相手からさ、やっぱ理解出来ないって拒絶されたら悲しいだろ。だから最初から理解して欲しくなくて、さっきみたいに怒らせて近寄るなって言ってるんだと思うんだよね、おれ。我が兄ながらお馬鹿さんだよねえ』
『自分に自信が無いのかもね。自分のこと好きじゃないんだろうし』
『はぁ?アイツが自信無さげに見えるタマかよ?』
『ナオ兄は自分の能力には絶対の自信があるよ、でもそれだけ。自分の存在に、自信が無いの。ここにいていいのか、とかそーゆー当たり前なことが分かんないんだよ、バカとしか言いようが無いよね』
『ヒロ、お前ほんとナオヤさんに似てきたよ……』
『ええー?だっておれはおれが好きだよ、おれがしたいからこうなったんだし。ナオ兄は自分がしたいしたくないより、そうするしかなかったから今のああいう人間になったっていう感じ?だから』

お馬鹿さんには躾をしなきゃね、と言って魔王は笑ったのだがその意味がようやく理解出来るようになってきた。躾ってなんだよ犬猫かよ、と当初カイドーは思っていたのだが確かにこれほど分からず屋では言葉で言っても通じないに違いない。かといっていくら力に勝っていても殴るわけにもいかない。
「……何の真似だ。お前は眠りたいんじゃなかったのか」
ナオヤの居室はカイドーの隣だが、カイドーは手前にある自分の居室にそのままナオヤを連れて入る。力で敵わないと知っているナオヤは逆らわなかったが、あからさまに苛立った顔でカイドーを睨んだ。
「別に眠かねぇよ。眠る必要があるのはアンタだろ。何が気に食わねーのか知らねーが、オレはアベルとやらじゃねえしお前の大嫌いな神とやらでも無ェ。だからアンタがムカついてる内容なんて分からねーし、そんなのどうでもいい。アンタが何思ってるとかそーゆーややこしいのはよ」
表情から苛立ちが抜け落ち、ナオヤは呆然と立ったままカイドーを見返す。
「ただ、忘れるな。前にも言ったが、オレはお前から逃げる気なんて無いし、お前を逃がしてやる気もねェ。今更一人になろうなんざ、無理なんだぜ直哉──諦めな」