magic lantern

快哉

「あ、ここにいたの兄さん」
ナオヤは後ろから何の気配も無いままに掛けられた声に振り向く。カインにとっての永遠の弟、ア・ベルとして力の全てを統べる魔王となった現世での従弟が扉を閉めて笑ってみせた。
「……珍しいな。お前が俺をそう呼ぶのは」
従弟の紘明はナオヤのことをナオ兄、とずっと呼んでいる。生まれた頃からの付き合いで、物心つく前から一緒に暮らしていたから兄さんと呼ばれても何の不思議も無いのだが、今までそう呼ばれたことは無かった。まるで──原初の記憶のように呼ばれたことは。
「もうすぐこっちが仕掛けるって分かってるからかな、あっちも焦ってるみたいでね」
ナオヤの言葉を一切素通りして、紘明は勝手に話を続ける。こっちとあっち、というのが何なのかはすぐに分かった。今、仕掛けるべく準備をしているのは神への戦いそのものだ。
「何の話だ」
「オレ、思いだしたんだよ。兄さんを兄さんって呼んでた──いつなのかもよく分からない、そんな頃のこと。そしたらやっぱり、許せなくなった」
思い出させるだけの力がまだあるんだね、などと暢気な口ぶりの紘明をナオヤは信じられない思いで見つめ返した。思い出したという範囲がどこまでのものか量る余地など無いが、ならば自分にカインに殺された時のことを思い出したということか。そして許せないというのは。
「ふっ……やはり俺が憎いか。当然だ、お前を殺したのは俺だからな。ベルの王となり魔を統べるお前に無策で挑んだところで勝ち目など無い、やるならさっさとやれ」
自嘲気味にナオヤが俯くと、聞こえてきたのはなんで?という間の抜けた声だった。
「何でもなにもないだろう、お前は俺に殺されて…!」
ナオヤの言葉を首を振って遮った少年魔王は違うよ、と落ち着いた声音で呟く。
「確かにあの時のオレを、アベルを殺したのは兄さんだったけど。でもオレが許せないのは神だ。どうしてかな、神と戦うって決めた時には憎くなんてなかったのに、今は許せない。だってナオ兄をこうしちゃったのは神じゃないか」
「……」
アベルと呼べばいいのか、従弟として紘明と呼べばいいのか分からずナオヤはそのまま黙って言葉を待った。神が憎い。その言葉を魔王となった従弟から聞くことは喜べる事柄のはずだったが、何故か身の置き所が無い。
「オレたちはあの頃無知で、ただ純粋に父の愛が欲しかっただけだ。やり方は違ったけどそれは違う人間なんだから当然のことで、そのことを受け入れきれずに兄さんを認めなかった神のことがオレはどうしても許せない。兄さんがオレを殺してしまったのも、元はと言えば神が身勝手な差別をしたからじゃないか。兄さんを身勝手に断罪しておきながら、懺悔をして告白したら許すという傲慢が許せない。……オレは結局、世界よりも魔王の座なんてものよりもたった数人が大事なんだ、人間の解放だとかそんな大そうなこと、本当はどうだっていい。ナオ兄の気が済むならいくらでもやるよ、だから」
魔王と呼ばれこの世で敵う者などいないはずの従弟は、心細そうにナオヤがいつも引っ掛けている着物の袖を掴む。僅かに、端だけを握られた手が細く小さく見えた。守らなければならない弟のものだと。
「だから、今度の戦いが終わっても消えないで」
「……アイツに余計な知恵をつけたのはやっぱりお前か」
前夜、カイドーが必死に自分に伝えようとしていた言葉と紘明が言っていることは全く同じだった。
「そうだよ。ナオ兄、カイドーのこと好きみたいだからね。カイドーもまんざらじゃなさそうだったから、背中押してみた」
「あれは突き落としたとか退路を断ったとか言うんじゃないのか」
ナオヤが気まぐれにカイドーに手を出したのは、魔王の秩序が広まる前のことだ。面白い生き物だと手を出して、なんとなく手放せずにいただけだったのに、引っかかっただけの獲物であるはずのカイドー自身が逃げる気はないと言った。ナオヤを逃がす気も無いのだと。
「いくらナオ兄のお気に入りでもさ、カイドーが心底嫌がってんなら助けたほうがいいかなってオレも思ったんだけど」
一度言葉を切って、ナオヤの目の前でナオヤそっくりの酷薄な笑みを浮かべてみせる。
「カイドー、なんだかんだで嫌じゃないらしいからさ。それなら、まあ、役に立ってもらおうと思ってね。ナオ兄はオレとカイドーとアツロウと全部置いてどっか消えちゃうほど、オレたちが嫌いなわけじゃないでしょ?ナオ兄が大嫌いな神はオレが倒しちゃうしね?」
今度は配下の者が見惚れるような、綺麗な笑顔で魔王はそう言い切った。ナオヤは片手で髪をぐしゃりと掴んで、長いため息を吐く。
もともとこの弟は自分に似て洞察が優れ、イイ性格をしていると分かってはいた。分かってはいたが、これは強敵だ。
「……魔王様のご命令ならしょうがないな。分かったよ、お前が俺の願いを叶えてくれる以上、俺もお前の願いを叶えてやるべきだろう。お前が神との戦いに勝ち、全てを終わらせた後も俺はここに──お前たちのところにいる」
「だってよ、二人とも」
「なっ!?」
くるりと振り向いた紘明の視線を追えば、そこにはカイドーとアツロウが全く違う表情で立っていた。
「アンタ……本当だろうな、それ」
「良かった!ナオヤさん気まぐれだから、ふいっていなくなるんじゃないかって…!」
泣きそうになっているアツロウと、照れているらしく頬を紅潮させているカイドーに挟まれながら、ナオヤは声を荒げて部屋を出ようとした従弟を呼び止める。
「……おい、どっから聞かせた」
「どこからだろうね?……アツロウ、ナオ兄は逃げないらしいから今度はオレに付き合ってよ」
「お、おう。ナオヤさん、おれちゃんと聞きましたからね、約束破るのナシですよ!」
「〜〜ッ、おい!お前、待て!」
アツロウと共に部屋を出ようとする紘明を尚も呼び止めると、少年魔王は振り向いてにこっと笑った。
「ナオ兄も少しは困ればいいんだ、だってオレら、ずっとナオ兄に困らされてたんだから。一人だったら困ることなんてナオ兄にはないんだろうけど、ナオ兄はもう一人じゃないからね」
「それが兄に対する言葉か、おい!」
「カイドー、ナオ兄のこと頼んだよ、性格悪いし悪人だし罪人らしいけど、オレの大事な兄さんだからよろしく」
「いや、そりゃいいけどよ、お前もいい性格だな大概……いや分かってたけどよ」
魔王となったナオヤの従弟はケラケラと笑いながらアツロウと部屋を去っていく。残されたナオヤは苛立ちのままに髪を掻き毟った。
「ああッ!何だってあんな性格に育ったんだアイツは!」
「どう考えてもアンタの影響だろーよ」
「分かってるから余計に腹が立つんだ!もうちょっと素直で可愛げのある弟に育てたつもりだった!」
封鎖前より魔王になった頃より格段に性格が悪くなった、とぶつぶつぼやくナオヤの耳に笑い声が届く。カイドーが立てた陽気そのものの笑い声が部屋に満ちた。
「なんだその大笑いは。俺は真剣だぞ」
「だからおかしいんだろ、アンタ、すごいいいよ。ちゃんと人間に見える」
「……神にも悪魔にもなった覚えはない」
「アンタ頭いいのにバカだな。アンタもアイツもバケモンみてーだって思ってたし、今でもたまにそう思うぜ、おれは。何考えてるのか分からねーしバカみてーに強いしよ。けど、今のアンタは普通の、どこにでもいる、ただの兄貴だ。弟のイタズラに手を焼いてる、単なる人間のな」
アンタのそーゆートコ嫌いじゃねーよとカイドーが耳を赤くして告げる様子を見ながら、ナオヤは今度こそ諦める意味で目を閉じた。

全てを駒にしたつもりだった。アベルの因子を持つ従弟をベルの王にし、神の愛し子たるアベルによって神を葬り、復讐を遂げればそれが全てだと思っていた。それだけにカインの生は繰り返されているのだと信じてきた。けれど神から独立した後、ここに──ナオヤという人間を理由はどうあれ欲する人間たちの傍で生を閉じるために、この巡り合わせがあったのかもしれない。それは天の配剤などではなく、神の意思などではあるはずがなく、互いの引力によるものだ。

神よ、万物の父を名乗るものよ。創造主と崇められ全てを司る自分を疑わぬものよ。
見るがいい。
お前によって罪人とされ罰を受け続けてきた魂は、お前にのみ囚われていたものではなくなった。この魂でさえ、もはやお前のものではない。復讐を遂げ全てを終えても、この魂はそこで燃え尽きたりなどしない。魂は自由を得て、心のままに生きて死ぬだろう。
それこそが、幾度生を繰り返しても復讐心で縛られ続けた魂の解放、お前からの本当の独立だ。





ナオヤを人として、魔王たちの傍に留めてそれをナオヤが良しと思えればそれが幸せじゃないかなと。復讐を失っても生き続けるだけの理由というか意味があれば大丈夫だと思う。ニールも。