magic lantern

とけ、る

「あの……」
組み敷かれた七尾は何度も目を瞬かせて、視線を彷徨わせた後でようやくそっと一燈に視線を向けた。半ば目が伏せられていて、一燈に向けられた視線もすぐに反らされる。
「んだよ」
「もう寝たほうが良くないっすか?その、明日も店があるし」
「だから寝るんだろ」
あっさりと切り返した一燈は片手で七尾が着ている浴衣の袂を開いた。
「わっ!」
即座に七尾は両手を伸ばして浴衣を執拗に重ね、ダメっす、と何度も呟く。
「何でだよ?」
「その、だって、俺、男っす」
「……お前が女だったことはねーだろ。ついでに言うとオレも男だけど」
「いや、だから、俺じゃ無理っす」
「何が?」
もごもごと何か言葉にならない小声を口の中で呟く七尾の髪を手で梳いて、一燈はそのまま顔に手のひらを寄せた。七尾が気持ちを打ち明けたのも、一燈が応じるようにして己の思いを明かしたのも、最近のことではない。一燈の感覚からすれば、相当待たされたのだ。気持ちが通じ合ったと分かった後も、七尾は一燈の部屋に寄り付かなかったし夜に部屋に呼ぼうとすればありとあらゆる理由を立てられて避けられた。業を煮やした一燈が半ば強引に部屋に連れて戻り、落ち着かない様子だった七尾もようやくいつもの様子を見せるようになったから、平気だと思ったのだ。ここまで我慢した自分の優しさと寛大さを褒めてやりたい一燈だが、七尾は無理だ、とかダメだ、とかさっきからそればかり。
「俺じゃ、その、若ががっかりするっていうか…」
「がっかり、ねぇ」
「だって、えっと、女の子みたいにふわふわしてないし」
「…どっちかって言うとがりがりだよな。細すぎ」
「胸、とかも無いし」
「あったらこえーよ」
「だから、俺じゃ、その……若が良くならないって、言うか…」
何を言っても平然といつもの調子で返してくる一燈に、それ以上何も言えなくなった七尾は語尾を濁らせてそのまま顔を俯かせる。一燈の手が七尾の顔から首筋に触れ、そのまま重ねあわされた浴衣をもう一度開いた。びくり、と七尾の身体が震える。顔を俯かせて目を瞑っている七尾は、上から聞こえてきた長いため息を死刑宣告のような気持ちで聞いた。
好きだと言ったのは自分で、とんでもなく嬉しく信じられないことに主人である一燈がその気持ちに応えてくれたのだから、もうこれ以上望むことは無いと思った。傍に居られれば嬉しくてどんな顔をしていいか分からなくなるし、何の気なしに一燈が唇を寄せてくれるだけで気を失いそうになる。すごく幸せで、自分の命を捧げるだけでは足りないほど様々な種類の愛情を覚えるけれど、自分では一燈に与えることが出来ないものがたくさんあって、だからこの蕩けるような幸せにいつまでも耽溺しているわけにはいかない。大好きな人が大好きな声で好きだと言ってくれたのはとても嬉しくて幸せで、キスをしてくれたことも大切で美しい思い出になるだろう。今までの、ちょっとだけの時間で一生を過ごしていけるほどの幸せをもうもらったと思う。女の子みたいに可愛くも、やわらかくも、一燈を受け入れることも出来ない自分がいつまでもまるで恋人のような顔で傍にいるわけにはいかないのだ。この人は気が強いから、少し大人しくて優しい女性だといいかもしれない。たとえば倉持家の新しい当主のような。
「アホ」
思わず脳裏に一燈と寄り添うみちるの姿を描いてしまい、涙ぐんだ七尾の額を思いっきり一燈が平手ではたく。
「お前なァ、頭が足んねーんだから余計なこと考えるな。面倒くせーだろーが」
「…だって、俺じゃ」
自分が好きで仕方なくて命ごと、魂ごと全てを捧げているのは一燈ただ一人だけだが、自分ではだめなのだ。大好きな人を幸せに出来ない自分が悔しいし悲しいけれど、この自分だから役に立てることもある。三連朱雀になって命を懸けてこの人を守る役目はきっとこの自分だから出来ることだ。少しだけ、ほんの少しだけ誰よりも傍にいられた、この美しい思い出だけで後は全てを捨ててでもこの人を一生守れると思う。もう何も要らない。
「オレがお前じゃないと嫌だっつってんのに、何でお前があーだーこーだ言ってンだよ。アホか」
「……若、今、なんて」
俯いていた顔が勢いよく上がり、涙で縁取られたまぶたがぱっちりと開いた。濡れて滲んだ視界の向こうにいる、七尾の大好きな主はたまにしか見せない優しい顔をしている。
「二度は言わねぇから忘れんじゃねえよ。お前がオレを好きなようにオレもお前が好きで、お前を選んだのはオレだ」
「はい……!」
「大体、お前はオレのモンなんだから、拒否権なんてないっつの。えらそーに」
照れくさかったのかすぐにいつもの調子に戻ってしまうところも大好きで、嬉しくて仕方ないのに涙ばかり出てきて、拭おうとした手は一燈に捕らえられる。ちゅ、という甘ったるい音と視界がクリアになったのは一緒で、クリアになった視界には七尾にとってこの世で一番大事な人の顔が大写しになっていた。
「あと、お前、二人でいるときに若って呼ぶの禁止っつったろ」
「う……」
「今度言ったら仕置き決定」
「え、えぇ!?」
「問答無用。…もう、待たねぇからな」
一燈の切れ長で強い目が七尾を射抜いて、七尾は息を詰まらせる。黙って、息すら止めて、小さく顎を引いた。おぼろげにある知識が痛みを伴うことを教えても、身体が痛むことなど些細なことにしか七尾には思えない。元より、身体も心も魂ごと全て自分はこの人のものなのだから、与えられるものが身を切る痛みであっても胸が潰れる苦しさであっても、その全てを受け止めたい。それでも七尾がさっきまで拒んでいたのは、自分の身体では一燈に何の快楽も与えられないのではないか、という不安とそしてどんなことであっても自分に失望して苛立ちを見せる一燈の姿を見たくない思いからだった。
七尾がここで拒みきったとしても、一燈はそれを理由に七尾を追い出したり邪険にしたりするような狭量な男ではない。そう信じていても大好きな人が自分のことを苦々しく思う姿は見たくなかったし、役に立つよりは迷惑をかけている部分の多い自分が今度こそ見放されるのではという焦燥もあった。全て、自分のワガママなのだと思う。一燈がそうしたいというのなら、自分は黙って従えば良かったのだ、多分。一燈自身が認めたように、自分は彼のものだから。それでも思わず拒もうとしたのは、好きな人に嫌われたくない、ただの恋心に過ぎないのだろう。ただの、そして野蛮な。
「おい」
「……はい!」
「……」
反射神経で返事をした七尾の声があまりにいつも通りで元気良くて、思わず一燈は息を解いて七尾の髪をぐちゃぐちゃに撫で回した。細くてこしの無い猫ッ毛なので七尾は毎朝セットに苦労しているがそれを思う様撫でて、まだ強張らせている顔に何度もキスをする。額、鼻、まぶた、頬、唇。
「堪えたりすんじゃねーよ」
きつく結ばれた唇に何度もキスをしてから、一燈は指の腹でそっと唇をなぞった。
「…っ……」
耐え切れないように七尾は薄く唇を開けて息を漏らす。唇なんて触られたことは無かったし、キスをされたことは何度かあったがその度にいっぱいいっぱいなので余計なことを考えたり想像したりする隙間さえ七尾の中には無かった。でも、今、目の前でどアップになっている顔の持ち主が、細くて自分より少しだけ長い指を自分の唇から顎先、首へと下ろしていくので、指の感触を覚えた肌がぞくぞくと震えた。震えは次第に身体を周って、背筋や腰や頭にさえ痺れを起こす。
「堪えたりすんなって言っただろーが。全部見せろ」
指先だけではなく、手のひらが首筋を撫で上げて親指をかけられて顎が自然と引いた。もとより、抗う気など一切無い。それでも身体に入った力はなかなか抜けないし、何か声のようなものが出そうになる度に反射的に息ごと飲み込もうとしてしまう。
「だ、って…分かんな…い…っす」
自分を自分で上手く制御できない。身体の力を抜けばいいことも、自分が息ごと声を飲んでいることを一燈が嫌がっていることも分かっているのに、そうしようとすればするほど身体が言うことを聞かなくなる。どうすればいいか分からない。また視界がじわっと滲んできて、でも泣きたくはなくて、唇を噛み締めようとしたらいきなり唇が重なった。
「ん、ぅ……」
深く唇が重なって、息も声も魂ごと食らいつくすような激しさの中で、不意に触れ合った舌がおかしなほどの痺れを呼んでがくっと腰の力が抜ける。反射的に閉じていた目を恐る恐る開けると、ものすごい至近距離に一燈の顔があって伏せられた目や少しだけ寄せられた眉間の皺に思わず見とれた。細美家に引き取られた頃から、ずっと七尾は一燈のことをカッコいいと言って憚らなかったが、これは何だか違う。色気、とでも言えばいいのだろうか。男の人でもそういう言葉を使っていいのか七尾には分からなかったが、自分が感じているものはそうとしか表現できないもので、正視し続けていられないような類のものだった。
「…っ、ん……ぁ…」
唇が重ねられたままで、息と一緒に小さな声が漏れた。細くて頼りない、どこか遠くで聞こえているように感じている声が自分のもので、時々聞こえる低い息遣いが一燈のものだと一気に理解出来た途端恥ずかしくて思わず耳を塞ごうと手を伸ばした。
「っ、ざけんな」
耳を塞ぐために顔に動かした手を掴まれて、そのまま頭の上へと持っていかれる。恥ずかしくて、どきどきして、顔をまともに見られないので目線を泳がせると片手で顎を掴まれて真正面を向かされた。
「目ぇ閉じんな。耳も口もだ。全部見てろ。んでオレに全部見せろ。曖昧にしてんじゃねぇ」
「曖昧、にって…」
「後になって夢だの何だの言われちゃたまんねーからな。逃げんな。全部オレに寄越せ」
「…俺、はもう、全部…あなたの、なのに」
若と呼んだら怒られると分かっても、名前を呼ぶのが気恥ずかしくてとっさに呼び方を変えたが、こちらのほうがよほど恥ずかしいと口にしてから初めて気がついた。七尾が震える声でそう告げると、一燈は何故か笑みを零した。
「そうだな。全部、オレのだ。全てな」
身体も、心も、魂でさえも。小さな頃七尾が読んだ本に、悪魔と取引をする男の話が載っていた。悪魔は契約をして願いを叶える代わりにその者の魂を死後に奪うのだと言う。命尽きても魂が残るというのなら、この人を守って命を失っても魂が彼のもとに行くのだから怖くなどない。もう既に彼が自分の魂を握っているのかも、しれなかったが。
「光樹?」
滅多に呼ばれない名前を、聞いたこちらが蕩けてしまいそうな声で呼ばれて、七尾は涙さえ浮かべて弱い笑みを形作った。たった一声なのに、身体が溶かされてしまいそうだ。一晩中呼ばれていたら、どうにかなってしまう。

どうなっても、構わない。

そう心の中で呟いて七尾は初めて、目の前の男の名を口にした。






初めて書いた一七。七尾が可愛くて仕方ないという私の怨念が若に乗り移っている感が否めません。ごめん、若。