magic lantern

至高の花

「なあ陸遜」
「どうしたんですか、凌統殿改まって」
先王が身罷って後、堂室を出ることさえほとんど無かった自国の麒麟が妙に神妙な顔でこちらを見ている。陸遜はことさら明るく笑ってみせた。
先王──孫策はこんな顔をさせるために麒麟を残して禅譲したわけではないはずだった。失道に因って麒麟である凌統が病んだことを知った孫策は、何の未練も無いとばかりに蓬山へ赴き禅譲を願い出た。最後まで孫策を留め置こうとした冢宰の周瑜でさえ、ついには止めることが出来なかった。
幼い雛の頃に孫策と誓約した凌統は禅譲を知った夏、堂室の漏窓も框窓も締め切って閉じこもってしまい失道の頃と変わらぬほど衰弱したのだ。しかし失道は癒えていて、もはや凌統は麒麟として新たな王の影響下にあった。
身体は次第に良くなったが、そのことが孫策との別離をさらに強く思い起こさせるのか、堂室から出ようとはしなかった。早く新王を、と臣下の誰もが望んでいることを察していながら、何よりその慈悲の神獣としての本能で新王を求めていながら。
凌統が唐突に陸遜の元を訪ねてきて、人払いを望まれたので小臣や門卒の夏官さえ追い払った後の言葉が冒頭のものだ。
「俺さ、麒麟失格かもしれない。もう麒麟じゃないのかも。……麒麟じゃなきゃ、良かったのかなあ」
「……どうしたんですか。身体の調子がお悪いんですか?」
陸遜の問いに凌統は悲しそうに首を振った。
「違うよ。身体は前よりずっと良い……主上が治して下さったからね。でも俺はどんだけ辛くても主上のお傍にいたかったのに」
孫策は凌統にとって初めての、そして永遠の主になるはずだった。幼い雛の、国政など何も分からぬ時分に選んだ王は麾兵に恵まれ臣下にも恵まれた。国には何の問題も無いように思えた。しかしいつからか凌統は病んでしまい、王は失道の病から己が麒麟を救うために禅譲を選んだ。
俯いた凌統の肩をするすると長い黒髪が滑っていく。陸遜はしばらく黙っていたが、そっと手を出してゆっくりと髪ごと頭を撫でて言葉を待った。
「陸遜」
「何ですか?」
陸遜は大司寇をいただいているが、何故か宰相である麒麟の凌統とも気安い。凌統自身、孫策が重用し孫策を尊ぶ臣下たちには心安く接するし、そもそも気兼ねしない社交的な性格をしている。主上を別とすればなにかにつけて世話を焼いていた陸遜に一番懐いていて、こうやって私的に訪ねてくることもよくあることだった。
「陸遜はさ、……俺のために死ねる?」
「…… 凌統殿」
完全なる善の神獣、およそ全ての命を貴び慈しむ国の宰相から漏れた言葉はあまりにも重たく感じられ、陸遜はとっさに何も応えられなかった。
ごめんね、と麒麟は切なげに笑う。凌統は泣き顔を臣下に見せたことがない。先王が身罷った時でさえ、人前では決して泣こうとしなかったのだ。
「俺は麒麟でいちゃダメなんだと思うんだよ。だって、俺はもう新しい王なんて欲しくない。伯符だけが俺の主上だ、俺はあの方と一緒が良い。俺はあの方のものなのに」
麒麟は王と違い、自死を選ぶことが本能的に出来ない。国の王を知り選び取る唯一の神獣、王と共に滅ぶのがほとんどだが凌統のように王から遺されてしまう麒麟も多く居た。そして麒麟を殺すことは王を殺すより重い罪、一切の減刑無く極刑と決まっている。
「失礼します」
椅子に腰掛けている凌統に立って近づき、陸遜は身体をそっと抱きしめた。このまま彼の望みを受け入れて次の王、次の王朝から自分が罪を賜ったとしても構わない。今居る麒麟を殺したとなれば、おそらくは即日で極刑が下りるだろう。
今まで王朝を仮朝を支えてきた仲間たちを裏切って重罪人になることを厭わないほどに、陸遜は目の前の麒麟を憐れだと酷く思う。どんな重罪人の極刑も嫌がる慈悲の神獣、その本人が自分をその罪へ勧めようとするほど凌統は追い詰められている。そこから救える手段が死でしかないのなら。
「私はね、貴方のためなら死んでも構わないと思っています。貴方を守って、死ぬのならね」
武官ではない陸遜が守って死ぬなどという状況に立たされることはおよそ考え付かないが、それでも、嘘偽り無い気持ちだ。
「主上のおられない国に…… 宮城にいるのはお辛いですか」
うん、と小さく凌統は頷く。麒麟は神獣、病気はしないし老いもしない身体だが血や怨詛に病む。そして不老不死の仙でさえ斬れる冬器を持ってすれば、誅することが出来た。
「……凌統殿、何故このように仰られたのか伺ってもよろしいですか?主上が身罷られて後、一度もこのようなこと仰られなかったのに。もしや──新しい王気にお気づきなのでは?」
びくりと腕の中の身体が震えた。麒麟は善なる性質からそもそも嘘があまり得意では無いし、凌統自身が人を謀るなどということが不得手だ。
「だからこそ、なのですね」
新しい王がいる。それを麒麟の本能で嗅ぎ取っている凌統は、その事実から逃れたくて死を望もうとしていた。新王の存在は畢竟、先王である孫策がもうどこにもいないのだと自分の『主上』でさえ無くなってしまったのだと認めること。凌統にはどうしてもそれが出来ない。
「ごめんな…俺、もう雛でも無いちゃんとした麒麟だってのにこんなんで……」
「いいえ、謝らないで下さい。麒麟と王の契りは私たちの考えなど及ばない世界の話ですから。……一つ、私と賭けをしてくれませんか」
「賭け?」
気軽を装って陸遜は明るく話し出したが、真実、これはこの国にとっての大博打だった。
「来年の今日、それまでお考えが変わらぬようでしたら凌統殿の願いを叶えてさしあげます。ただ、その代わりに明日からは執務に戻っていただきたいんです」
「……そんなことでいいのかい?」
新王を探してくれとは露も言わない陸遜の言葉に凌統は不安そうに眉を潜めた。
「いいのですよ。ああ、私と城下に赴くとか、お忙しい冢宰の代わりをお願いしたりはするかもしれませんけどね」
黒麒麟である凌統は紫水晶とよく評される色ではなく、漆黒に近い深みのある色をしていた。宵闇よりも深い黒がじっと陸遜を射抜く。本当にそれで一年後には助けてくれるのか、と憂いの濃い顔に書かれていた。
「宜しいですか?」
「分かったよ。俺のために全部捨ててくれって言ってるんだもんな、俺だって何か言うこと聞かないと」
義理堅い台詞で頷いた凌統だったが、陸遜には多少なりとも勝算があった。凌統は慈悲深い神獣、そもそもの性質として王を欲する。外に出る機会を作ってやれば、自ずから王を欲して王へ近寄るはずだ。今回のことも、孫策への深い情が発端なのだから王へ傾ける情そのものは濃い麒麟だと陸遜には分かっていた。
ただ凌統はいくらか頑固なところがあるので、新王が期待外れのとんでもない人物だとかで意固地になって拒絶した場合は国ごと破滅することになる。
勝算は、五割。

 

陸遜が国というより天に対して大博打をしたのは十月ほど前のことになる。二ヶ月を残して賭けは陸遜の勝ちに決まったかに見えた。国は新王を迎える運びになったのだ。新王が凌統を伴って宮城へ移ったのは月の初め、物慣れぬ新王の傍らには必ず凌統の姿があって一つ一つ助言しては国を前へ進めていた──はずだった。
「凌統殿、今なんと?」
沈鬱な表情で麒麟はゆっくりと首を振る。彼はもう一度同じ言葉を繰り返した。
もう耐えられない。
新王をいただいた喜びに宮城だけでなく国そのものが沸いている、その最中にあって凌統だけはいかにも神獣らしい落ち着き払った態度だった。それは落ち着いていたのではなく、ずっと苦しんでいただけだ。ただそれを喜ぶ人々に悟られまいと隠し通して、もう耐えられなくなったらしい。
「……俺はもうおかしいんだ、きっと。だって……王、が玉座におられても俺はどうしてそれが伯符じゃないんだろうって思う。伯符だったら、ってそればっかり考えてるんだよ。もうおかしいんだよね?ごめんな、こんな麒麟で。俺は国にも民にも何もしてやれない…」
ぽとり、と滴が一粒小卓に落ちた。孫策の御世百数十年、その間や身罷った後でさえも人前で泣かなかった凌統の涙。透き通った紫の目は潤んで今にも涙を次々と零しそうだ。
「あの方は政務などに明るくはおられませんが、きっと国を良くして下さる御方です。その…まだ答えを出すのは早すぎるのではありませんか?」
凌統が新しい王だと感じたのは義侠の徒、甘寧という男だった。
興覇と字する男は義賊のようなことをしていて、弱者に気を配る心を持ってはいたが如何せん血の気が多い上、儀礼などというものと接しない人生を送ってきたので慣れないことばかりの宮城暮らしに苛立っている姿を見かけることもある。
凌統は苛立つ新王に反駁せず、ただ落ち着いて説明を繰り返すだけ。それがよけい苛立たせているのだろうと陸遜には分かっていたが、この麒麟が大人しく新王を宮城に連れ帰ってくれただけでも僥倖なのだから何も言うまいと思っていた。
「王じゃない、俺が駄目なんだよ陸遜。だって俺は──」
凌統は俯いて声を潜め、小さな声でこう呟く。
「王に逢ったときからずっと、王と天を恨んでる。新しい王なんていなくていいのに。俺から伯符を取り上げた天帝も、伯符を殺した新王も、俺は許せない」
「…………っ」
麒麟が、生涯の半身であり主である王を恨む。そして自分の親とも言うべき天帝をも恨むという。それは全て愛していた自分の王と引き離されたから。
「分かってる、分かってるんだよ。伯符が死んで俺が残ったのは伯符が俺を大事にしてくれたから、伯符が死んだのは天命尽きたからで、王はこの国を救う存在、分かってるんだ。でもどうしても……」
ゆるせないと麒麟は掠れ声で呟き、ついには泣き出してしまった。陸遜はどうしたら良いものか迷い、視線を彷徨わせてはっと顔を上げる。
「お前ェ、何でそいつの前で泣いてんだ」
低く抑えられた声に凌統は泣き顔を上げ、さっと表情を硬くした。涙を袂で拭って平静を装おうとしたが赤く染まった目元を隠すことは出来なかった。
「悪ィが一通り聞かせてもらったぜ。伯符ってのが先王なのか」
「先王孫策様は字を伯符と」
新王の口から出た自分の愛する王の名に凌統は眉を潜めたが口を開こうとはしない。陸遜の言葉に甘寧はふぅん、と気の無い返事で答えてみせた。
「ちっと話す必要があるみてェだな。……おい、来いよ」
甘寧はそう言い捨てて背中を向ける。一人でずんずんと歩き始めた。
「……陸遜」
助けを求めるような声にも、陸遜は首を振ることしか出来ない。王の命ならばそれは何にもまして尊い。王の命を覆せる者など、遮ることの出来るものなど宮城にあろうはずがない。
凌統が堂室を出る際に聞こえた微かな声、それは確かに伯符と呟いていたが陸遜はその響きに胸が締め付けられるような思いだった。