magic lantern

THE FOOL

部屋がいやに明るいな、とロックオンは窓の外に目を向けた。窓ガラスの端に、雲に覆われて朧に光る満月が見える。ミカエルが呼び出してもいないのに現れてはこちらを眺めていたり、アズラエルに見下ろされていたり(アズラエルは人に似た顔面が無いので見ているのかは分からないが、ともかく頭上でふよふよとしばらく浮いていた)、今もテンセンニャンニャンが足元に座ってロックオンを見上げていたり、悪魔たちはどうにも力を持て余しているらしかった。薄々気づいていたその理由にようやく思い当たって、窓を開けた。雲に覆われている月は確かに満月で、あの日からもう二週間ちかい日々が過ぎたのだと思い知る。
今ロックオンたちがいるのは、アリーと戦った後グラハムに連れて来られたユニオンの本部だ。アリーと戦い、ロックオン──ニールはアリーを殺さずにグラハムへ預けてAEUへ移送するよう頼んだ。それでも追いかけてアリーを殺してしまいそうな自分を止めるために、たまたま顔を見せたハレルヤにあることを頼んで、気がついたら翌日の夕方だった。

『お前の願い通り、眠りたいのなら眠らせてやる。ただしおれのやり方でな。それを受け入れる気があるなら、大人しくヨガってろ』

アレルヤの肉体を通して行ったセックスがどれほどハレルヤにとって意味のあるものだったのか、ロックオンには何も分からない。ハレルヤは自分はしたいように奪っているだけだ、とロックオンが願いを叶えてくれた礼を言う隙さえ与えなかった。ただ、ただひたすら快楽で意識を塗りつぶされてハレルヤの存在で全てが満たされて、気がついたときにはハレルヤなどどこにもいなかった。それどころか、ハレルヤはあれから一度もロックオンの前に姿を現そうとしない。
そもそも気配に聡いのだ、たとえ顔を合わせずとも近くに気配があれば分かるはずだ。でも、ロックオンはあれから一度もハレルヤに逢えていない。気を失う直前、いやその間に何かハレルヤが言っていたのに、ロックオンはその言葉に応えられなかった。何も、言えなかった。子どものようにハレルヤに縋って、ハレルヤの名前だけを呼んで、全てが終わったと気づいた時に残されていたのは、おかしなまでに凪いだ心だけだ。
グラハムからアリーをAEUへ移送する手筈を整えたと聞かされても、AEUの内部で多少モメたらしいがフランス軍ではない別国の大佐が口添えをしてフランスの正規軍の少尉が身元を引き受けたとカタギリに聞かされても、何も、動かなかった。
十年以上あの男を殺すために生きてきたはずだった。
仇と呼べるのはどうやらあの男だけでは無いらしいと分かったが、それでもあの男が忌むべき仇敵であることに変わりは無い。なのに。仇と定めた男を自ら見逃して、それでも殺してしまいそうだからとハレルヤに眠らせてくれと頼んだのではなかったのか。ハレルヤは確かにロックオンを眠らせたが、目覚めたロックオンはたとえようの無い違和感に立ち尽くすことしか出来なかった。
薬をあの男に渡した仇はまだいる。ミッションもまだ終わってはいない。やらなければならないことは山ほどあるはずだ。そう頭で分かっていても、ロックオンの胸中はおよそ小さな湖のように凪いでいて、自分がこの場にいることをどこか不思議にさえ思える。
──俺はあの男が憎い。憎かった、はずだ。言葉にする必要など無いほど、血が沸き立つほどに殺したいと思っていたはずだった。でも、じゃあ、どうして。
なぜアリー・アル・サーシェスはAEUにいて、自分はここに生きているのか。仇を討てたら自分は死んでも構わないと、仇を討つためだけに山ほど人を殺めても尚生き延びてきたはずじゃなかったのか。なぜ、二人とも生きているのか。あの男に薬を渡したというリボンズというヤツも仇と呼ぶに相応しいだろうに、今までほどの憎悪どころか、何の感情も湧き上がってこない。話をアリーから聞かされたときは確かに何か感じるものがあったはずなのに、もうそれが何だったかも思い出せない。
自分に何が起きているのか、戸惑うロックオンの様子を察したらしくグラハムはアリーとの因縁などを追求したりせず、まるでいつも通りだ。刹那やアレルヤはユニオン兵から街の情報を仕入れているようだったし、ティエリアまでもが情報収集に時間が必要だからしばらくここに滞在するのがいい、とロックオンに進言した。四人の対応が優しさだとわかっている。けれどそれは自分には過ぎたものとしかロックオンには思えなかった。
仇を討ち終えたら存在する意味が無いと思っていた。その後で罪を償って死ねるならそれでよかった。でも、仇を討ち損ねたら、それこそ存在する意味はあるのだろうか。今まで言われるままに人を殺してまで生き延びた自分の命に、最早何の意味があるのだろう。敵討ちを名目に生き延びたはずなのに、その敵討ちさえ果たせず、あまつさえチャンスを自分でふいにして。
アリーや薬を渡したリボンズ、作った誰かを許せるわけでは決してない。憎いとは思うのに、どこか現実味が薄い。憎しみの濃度が変わったことを理解できないうちに、それは自分の存在意義を疑うような思考になって、ロックオンは徒に思索に耽っては今のように不意に悪魔たちを呼び出してしまっていた。呼んでいるつもりはないので勝手に出てきているのだが、彼らは言葉を交わせる立場であるにも関わらず何も言わない。何も言わず傍にいて、ロックオンが思考を打ち切ったり別のことに気を取られたりするといつの間にか姿を消している。
「使命に殉ずる人間だから俺にはお前たちが呼べるって、グラハムは言ってた」
大天使長ミカエルを使役出来るのは、己に科した使命を頑なに果たそうとするからだろう、と。グラハムはそういってロックオンの使命の中身如何に関わらずその在り様を認めたのだが、今でもグラハムはそう言うだろうか。
「俺があいつを殺さなかったのは、あの時俺がそうするべきだって思ったからだ。でも、あいつを殺せなかった、仇を討てなかった俺は、何なんだろうな」
「──俺は、どうしてここにいる。どうして、俺は生きてる…」
ロックオンの声に、テンセンニャンニャンは答えない。長い髪を揺するように首を傾げて、じっと己の主を見ていた。




「……ニール。入っても構わないだろうか」
グラハムがロックオンの居室にしているドアを叩く。いつものように返事はない。AEUの軍人を護送して後、グラハムが何を話してもどんな情報を伝えてもロックオンはどこか上の空だった。ロックオンがまたグラハムの知る姿に戻るまでに時間が必要なことは明白で、グラハムは職務を逸脱していることを認めながらもロックオンたちが滞在できるように取り計らうことにした。いつまでと期限を決めたわけでは無かったが、このままずるずると時間を過ごしてしまえば後々ロックオンがそのことを悔いることもまた、分かりきったことだ。
「失礼する」
強引かとは思ったが、何かしらのアクションを起こさなければとロックオンの部屋に入ったグラハムは、目前の光景に唖然とした。ロックオンがいない。ロックオンが本部内にいるのならそれでいいが、どこかでロックオンを見かけたという話をグラハムは聞いていなかった。その上。
「これはどういうことだ…!」
ロックオンたち、デビルサマナーが肌身離さないはずのCOMPがベッドサイドのテーブルに置き去りにされている。おまけにスナイパーライフルも、ハンドガンもベッドに置かれたままだった。グラハムの記憶ではロックオンが武器を、特にハンドガンを手放したことは無い。グラハムは慌ててベッドサイドに備え付けられている監視室との回線を開いた。
「私だ。ロックオン、ロックオン=ストラトスはどこにいる?」
『隊長…?あのデビルサマナーですね、探してみます』
短い沈黙の後、戸惑った声がスピーカーから聞こえてくる。
『どうやら本部内には存在を確認出来ないようです、いつ頃外へ出たのか、今調べています』
「至急で頼む。それから彼ら三人を私の部屋に集めてくれ」
『了解』
監視網は本来、この本部が大使館として機能していた昔の名残だと言われていた。内部を監視するのではなく、外部を警戒するためのもの。主権を同じくする今となっては外部を監視する必要も無いと思われていたが、悪魔が跋扈するという未曾有の事態にあって内外共に監視出来るシステムに変化して役立っている。
グラハムが急いで自室へ戻った時には、既にロックオンと共にあるはずのガーディアン三人がそこにいた。
「エーカーさん、僕らだけを集めてどうしたんですか?」
「…落ち着いて聞いてくれ。ロックオンが、この施設外に出たらしい。君らは何か聞いているか?」
施設外に出た、というグラハムの言葉に顕著な反応を示したのは小柄な眼鏡の少年、ティエリアだ。
「馬鹿な!?ロックオンのCOMPの反応は施設内の自室にあるはずだ!」
「だから君たちを集めたのだよ。彼は召喚に必要なCOMPも、ライフルもハンドガンも全て部屋に置いたまま、居なくなっている。私が知る限り、ロックオンの武器はその二つだけだったはずだが」
「ロックオンは自分のことをスナイパーだと言っていた。ライフルとハンドガン以外に武器を持っているとは思えない。おれたちは見たことが無い」
激昂して立ち上がったティエリアを宥めようと手を伸ばしたアレルヤが、その先を変えてぐっと片手を握りこむ。
「エーカーさん。お世話になってばかりで申し訳ないんですが、お願いがあります」
「聞こう」
「彼を…ロックオンを探すのを手伝って下さい。彼は僕たちの中で一番、この街に詳しいんです。僕もティエリアもこの一年ほどしか外を知りませんし、刹那はずっとシブヤにいました。アオヤマで生まれ育って、この街で仕事をしていた彼が本気で姿を消したのなら、僕たちだけじゃ探せないかもしれない」
アレルヤの声にグラハムが頷く間もなく、ユニオン兵の声が割り入ってきた。
「隊長、分かりました。あの男がここを出たのは今朝未明、どうやら部屋の窓から出て行ったようです」
「分かった。今朝未明ならそう遠くまで行ってもいまい。私も全力で手伝わせてもらおう。彼はもう少し、理解しなければならないな」
グラハムが言いながら手早く装備を整える。本部待機の部下にいくつか指示を与え、ロックオンの武器とCOMPを抱え、それに刹那の部屋にいたハロを連れて慌しくアカサカの街へ出た。
「エーカーさん」
「何かな」
闇雲に歩き回るのは非効率だということで、とりあえず近場でよく四人が利用していた寝場所を回ることにした。一つ目へと向かう中、アレルヤが真っ直ぐグラハムを見つめて尋ねる。
「さっき言ってましたよね、ロックオンはもう少し理解しなければならない…って。何をですか?」
グラハムはアリーとの戦闘中にアレルヤたちに向かって、堂々とロックオンのことが好きだと言ってのけた人物だ。アレルヤはそれからずっとグラハムに対して言葉に出来ないものを抱えている。何と表せばよいかアレルヤ自身にも分からないが、何となく、グラハムがロックオンのために動く姿を見ているのが嫌だった。
そんな葛藤を露ほども知らないだろうグラハムは、一瞬アレルヤの問いに驚いてみせたが、すぐに首を竦めてみせた。
「簡単なことさ。彼はもう一人ではないということだ。ロックオンが今までどのように生きて、その過去のために自分をどう律していて、だからこそ一人であろうとする意思が強固であることを知っている。今まで通りの偽りの平穏を得たいと願うロックオンは、一人であることを望むのだろう。だから今こんな事態になっている、違うかね?」
「……多分、そうでしょうね。僕には分からないことですけど」
「無論私にも全て分かっているわけではないさ。ある程度は憶測だ。けれど、一つはっきりしているのは、もはや彼は一人であることが出来ないということだ。私や君たちがいるのだからね。彼は少し私たちを甘く見すぎている。私たちが彼をどう思っているか、ロックオンは少し思い知ったほうがいい。だろう?」
強い太陽光がグラハムの金髪を眩く輝かせる。力強いグラハムの笑顔に、アレルヤは何と返していいか分からなくなって、やっとのことでそうですね、と返事をすることが出来た。


ライルのターンまでどれくらいかかるんだろう…。これ、ライル編なんですよ。実は。