magic lantern

交差 前編

後悔をしていない、と言えばそれは嘘になる。
剣を握る生き方しか知らない人生、後悔など山のようにしてその都度捨ててきた。いろんな国で関わった戦の度に何らかの後悔はあって、でもそれはその都度処理出来ていたはずだった。そう、戦のほとぼりが冷めて国を出て旅に戻れば後悔はただの過去に変わる。
そうでなければまた次の戦場になど行けるはずもない。少しでも後悔することが無いように出来る限りのことを、と思っても願っても人の生き死にが関わるのだ、どうやったって後悔は残る。過去に飲み込まれては剣など握れない。それがゲオルグの身上で、これまでの行動規範だった。
ただ──あの国から離れて数年経った今でも色褪せぬこと無くゲオルグを捕らえようとするものが一つだけ、ある。
この北の地とは似ても似つかぬ気候、太陽と大河の国。その国で出会った、太陽だとも月だとも心内で例えた美しい青年だ。

ゲオルグは彼の国で一つの大罪を犯した。大罪を背負うか国と共に全てが滅ぶのを好しとするか、そんな選択肢しかあの瞬間には無かった。大罪を犯さずとも、ゲオルグは元々親友であるフェリドからの頼みごととやらが片付いたらいつものようにファレナを去るつもりだった。だから、こんな事態は想定外なのだ。
いつものように上手くやりすごしてきたはずなのに、別れるその瞬間のことを日ごと夜ごと後悔するなんて。
『ゲオルグ殿』
彼はいつだってゲオルグをそう呼んだ。殿など要らぬ、とゲオルグが強いてもそれを崩そうとはしなかった。軽薄を装っているくせに、どこか律儀で変なところで真面目で。他人の感情に聡くて己のことにはまるで無頓着。一言で言えば放っておけない、男だった。
『ゲオルグ殿はいつ出るんですか?』
『特に決めてはいないが、近いうちにな。なに、ちゃんと決めたら知らせるよ』
──おかしいと、思うべきだったのだ。
女と見れば見境無しに声をかけて、なんて評判の立つ男がその実は一途で、相手の都合ばかりを気にして何も言えないでいるということに気づいてやらなければならなかった。
女性に数々声を掛けるのは本人曰くの挨拶であり礼儀で、本質的に男は情が濃い。たくさんの愛情を与えるばかりで、自分はそれに値しないのだと受け取らない。受け取れない愛情からはするりと逃げてしまう。
『お前が傍にいるなら、アイツもやりやすいだろうしおれも安心して行けるな』
女王を守る女王騎士、その騎士長には幼い女王の兄が代理で就くことに決まっていた。クーデターを治めた当人でもあるから、民衆は王家の兄妹が築く新しい国への期待で満ちていて、元老院の貴族たちはそれを察して邪魔しようとはしなかった。だから安心だと思ったのだ。王子が兄と慕う男が傍にいるのなら、慣れない役職だろうと重責だろうときちんとやり遂げられるはずだ、と。それだけの力を王子はあの戦の中で身につけていたし、周囲からの信頼を様々に勝ち得てきた。
『……そう言ってもらえると嬉しいですね。ゲオルグ殿と二人旅も面白そうですけど』
この、たった一言。
まるで冗談めかした一言が、最後に差し伸べられた手だった。
『そうだな、いつかはそれも面白いかもしれん』
王子や女王が年長の保護を必要としなくなる時が来れば、その時にファレナを訪れて旅に誘うのも悪くない。罪人として知れ渡っている身ではあるが、こっそり逢うぐらいの手立てはいくらでもあるのだから、と。
『ねえゲオルグ殿』
『ん?』
何度思い返しても、この時、泣きそうな顔をしていたはずなのに。
『俺ね、ゲオルグ殿のこと大好きですよ』
『ああ。……おれもだ』
どうして、あの手を捕まえられなかったのだろうか。


ファレナにずっといるのだと思い込んでいた男が、ファレナにはいないと聞いたのはその翌年だ。墓参りと様子見を兼ねて訪れた国でゲオルグは想像してもいなかったことを聞かされた。
『いない?』
『うん。カイルは女王騎士だけど──だから、って言うべきかな。ゲオルグが発ってしばらくして女王騎士を辞めたよ。カイルは父さんと母さんと…サイア姉さんの騎士だったんじゃないかな。もちろん、僕のこともリムのことも大好きだって知ってるけど』
一人だったカイルを太陽宮へ連れ帰ったのはフェリド、女王騎士に取り立てられたカイルが忠誠を誓ったのはアルシュタート女王とその女王騎士長であるフェリド。忠誠を誓った女王の家族をカイルはとても愛していて、女王の妹や王子と王女を守るために死地へ何度でも踏み込んでそして帰ってきた。
『カイルが自分から何かしたいって言ってくれたこと、今まで無くてさ。初めてカイルが何か望んでくれたのが嬉しくて、僕は必死にリムを説得してカイルを送り出したんだよ。リムもリオンも最後までなかなか離そうとしなかったんだけどね。……僕はゲオルグと一緒なんじゃないかと思ってたんだけど』
先の女王と同じ、大河の青がゲオルグを射抜く。王の資質を持つ男だとゲオルグはあの戦いの最中で何度か思ったことをまた、思った。
『いや。約束も何も……おれはアイツはずっとお前の傍にいるんだと思って…思い込んで、いたんだ…』
『……そう。カイルはどこか行きたい場所があるわけじゃないみたいだった。いろんなものを見たい、って言ってたからそのうち逢うこともあるんじゃないかな』
王子とはもう呼べない、女王の兄。彼はまるで慰めるようにそう言って笑ってみせた。ひどく大人びた彼の笑顔と、確かに掴んでいたと思っていた手が空を掴んでいた、その虚脱感ばかりが残っている。


そのうち、と思ってもう五年になる。五年という月日は長い。待つには長く、だが諦めるにはどうやら短いらしい。そもそも待つも何も自分から傍を離れたくせにな、とゲオルグは自嘲してグラスを空けた。
いつもこうだ。カイルに似た金の長い髪、その髪が靡く姿を見るだけでゲオルグは瞬く間に過去へ立ち返ってしまう。カイルのような白金に近い髪は南方では珍しい。北の──今居るハルモニアなどでは珍しくない色で、ゲオルグはこの地に来たことをそれこそ後悔し始めていた。後悔したと言っても、仕事を請け負ってしまった以上しょうがないのだが。
白金の髪に群青の瞳。ハルモニアではさして珍しくない、時折見かける容姿だった。ただ、ここハルモニアではその姿は一級市民の証として認識されている。ほとんどの一級市民、貴族階級がその容姿をしているのだ。だから珍しくは無いが、人目は引く。
だから傭兵隊の待機所として解放されている酒場でその髪を見た時、ゲオルグは思わず顔を上げた。どんな人物かと思って目線で追えば──……
「あれ。こんなとこで逢うなんて奇遇ですね、ゲオルグ殿」
「カイル……」
「はい。お久しぶりです」
今まで六年間の別離など何も無かったように、カイルはいつもの笑みを浮かべて短くなった髪を揺らした。
「そうだ、困ってたんですよ。俺は仕事が欲しくて来ただけなのに、どこもここも階級がどうのって言っててー」
「……お前の容姿はこの国じゃ一級市民のそれだからな。おれが一緒に行けば構わないだろう」
傭兵隊の中では既に一小隊を指揮する立場にあり、遠い南方のファレナでの罪名より北のハルモニアでは赤月帝国時代の将軍名が聞こえている。多少の融通ならば利くはずだ。ゲオルグがそう請合うとカイルは良かったー、と昔のように無防備に笑う。
「ホント助かりましたよー。俺、路銀が心もとないから仕事しようとしてるのに、なんかおっきい宿に連れていかれそうになるしー」
「仕方あるまい。この国の貴族のほとんどはお前みたいな髪と目をしてるんだ、災難だったな」
すらすらと淀みなく話が流れていく。
今までの後悔は一気に霧散するどころか膨れ上がり、凝り固まって冷えていった。
──カイルにはもうあの時のような気持ちは無いのだろう。おればかりが引き摺っているだけで。
──あのサインに気づかなかったのが全てだったのだ。カイルはするりと身を引いて、もうおれを恋人だとは思えないから旧友のように屈託無く笑顔を見せているのだろう。
──全てが、遅かった。
後悔したことも、逢いたいと願ってファレナを一年後に訪れたことも。
雇い主にカイルを紹介して自隊の副官にする許可を取り付け、宿舎へと案内する道すがら。隣を歩いていたカイルは不意に立ち止まってゲオルグの顔をしげしげと眺める。
「……カイル?」
あの国にいた頃ならキスをしていた距離、カイルはじっと顔を見ているだけだ。
「見えてるんだろうとは思ってましたけど。傷もほとんど見えないですねー」
「ああ……フェリドのおかげでな」
ファレナを訪れる前から自戒としてつけていた眼帯。ファレナを出て外したので、カイルにとっては初めて見る姿になるのだろう。物珍しそうにきょときょとと眺め回している。6年経っても変わらない、どこか不思議に甘い匂いのする身体を抱きしめてキスをしたいと思ったが、それはもう叶わないことだ。
あの時、カイルの全てを浚う覚悟の無かった自分には、もうその資格が無い。この男を得ようと思うのなら、彼の大事な『家族』である弟妹からも亡くなって永遠となったフェリドやサイアリーズたちからも、浚って己の物にするぐらいの覚悟が必要だったのだろう。
「なんかなー…ゲオルグ殿ってば元々落ち着いてて格好良かったのに、渋くなっちゃって更に格好良くなっちゃうんだもんなー卑怯ですよー」
「……何だそれは」
「えー?だってそうでしょう?あ、実は奥さんとかお子さんとかいるんじゃないですか?それも、すっごい美人の!」
身体の中心が冷めていくのが分かって、ゲオルグは思わず苦笑した。これはもう脈が無いとかそんな問題でも無いらしい。カイルの中では、既にゲオルグは妻帯して当然の存在だったのだ。35にもなればそう考えられて当然なのだが、よりによってカイルにそう思われていたのが有態に言えばショックだ。
「そんなわけあるか。ファレナを出てからずっと旅暮らしのようなものなんだぞ、どこにそんな時間がある」
本当に問題なのは一つの土地に留まる長さなどでは無かったのだけれど。
「まあ旅暮らしって言われたら俺もそうですから人のこと言えないんですけどねー」
カイルはそうけろりと笑って、たちまちその話題を打ち切った。


長年の想いを空に返さねばならなくなったとはいえ、カイルが一番近くにいることには変わりない。傭兵隊の仕事はファレナでの戦や赤月帝国時代の戦に比べて大義の無い、ただの戦争屋としての仕事でしかなかったがそれでも日々は充実していた。形式上は部下だが元々同僚だし、仔細を話さずとも理解してくれる存在は有難い。カイルは未だに一級市民と間違えられることに困惑していたが、笑顔で対応していた。──この時、までは。
「カイル!?」
ゲオルグの小隊は斥候と遊撃の両方を担っていた。敵方の様子を伺いながら必要であれば戦闘して相手の隊列を崩し、本隊が到着するまでに状況を整える。それが役割のはずで、カイルに任せた数人が遊撃担当として戦闘に出て行ったのは今朝の話だ。
だが、日が落ちる前に戻ってきたのはカイル一人。それも惨憺たる有様で。
「今すぐここを発つように指示して下さい、囲まれてます。俺の部隊は待ち伏せにあって──……」
カイルは俯いた顔をすぐに上げ、ゲオルグの前に地図を広げた。
「こっちと、こっちですね。抜けられそうなのは二箇所だけ。大人数じゃ目立ちますから、俺とゲオルグ殿で手分けしたほうがいいでしょう。ゲオルグ殿はこちらを抜けて本隊に合流して下さい」
「待て、お前、そんな身体でどうする気だ」
ゲオルグの了承も聞かずに部屋を出ようとするカイルの腕を掴む。ぞっとするほど、冷たかった。
「どうするって、残りを連れて抜けますよ。大丈夫、俺の容姿はどうやら役に立つらしいですからねー……ここまで来るのにもずいぶん助けられました。急いで来たんで紋章使ってないですけど、大丈夫、行きながら魔法で治して行きますから。だから」
まるで逃げようとするかのように、カイルはゲオルグから離れようとする。捕まえられた腕を放そうと身じろぎ、その度に微かに顔を顰めて苦痛に耐えていた。
「ダメだ、ここで治してからにしろ。本当はもう魔力が残ってないんじゃないのか?」
「──…ッ」
血が流れている様子は無いが、ひどく冷たい身体がダメージの多さを如実に物語っている。
「どうやら当たりらしいな。お前、何をそんなに焦っているんだ?」
「……お願いです、逃げて下さい」
「え?」
細い声がわずかに震えていた。
「ここを囲んでいるのは敵方じゃない、ハルモニアの部隊です。俺たちを雇った将軍とは敵対しているらしくて…よく分かりませんが、聞いたんです。赤月と戦争するために……俺たちの部隊は邪魔なんだそうですよ」
「帝国と戦争?馬鹿な」
「詳しい事情は分かりません、でも、赤月の将軍だったゲオルグ殿の部隊をスパイとして報告するとか何とか言ってて」
「要はおれが狙われてるってわけだな」
カイルは頷こうとしない。視線を逸らして、やはり逃げて下さいと繰り返した。
「俺たちは傭兵だからたとえ囲んでる部隊に捕まえられても何とかなるかもしれません、でも、貴方は」
「スパイとして突き出すには死体の方が都合良いだろうな……いくらでも偽装が出来る」
「お願いですゲオルグ殿、こちらなら抜けられますから、だから早く」
白い指先が西側の地点を示す。先ほどカイルは西と南を指差したのだが、西の一点だけを示して繰り返した。
「ここです、獣道しかありませんでしたが、抜ければとりあえずは何とかなるはずですから」
「お前は?こちらも抜けられるというのは嘘なんだろう?こちらにいるのは、おれを捕まえようとしている部隊なんだな?」
先ほど示した南をゲオルグが指差して見せるとカイルは押し黙った。それが答えだった。
「カイル、危険なのはお前も同じだろう。お前が連れていた部隊をおれが斬ったことにでもしたいのなら、この小隊の全員がその計画のダシにされたことになる。まして、一級市民と見間違えるお前をおれが斬った、という話にでもなれば……」
カイルはゲオルグの言葉にへにゃりと顔を歪める。
「どうして分かっちゃうんですか?俺の苦労、台無しじゃないですか……。でも分かったなら尚更早く行って下さい。俺だって捕まる気は無いですし、ゲオルグ殿に濡れ衣着せる手伝いなんてしたくないですから、ちゃんと逃げますよー」
「どうせ危険なら二人一緒でも問題あるまい。行くぞ」
ゲオルグはカイルの手を引いて部屋を出ようとした。が。カイルは立ち止まったまま、それを拒む。
「カイル?」
「一人で行動したほうが逃げやすいですよ。だから、今度は帝国で逢いましょう。帝国でならゲオルグ殿は有名だからすぐ探せそうですしね」
「…………ダメだ」
今離れたら、カイルは絶対に帝国になど来ない。この手を離したら──もう二度と逢えない気すら、する。ゲオルグはとっさにカイルの身体を抱きしめた。離したくなど、なかったのだ。六年前から。